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Research

SaaSの誕生とSalesforce、マーク・ベニオフの革新的なマーケティング戦略

2022-10-7

溝野 萌 / Moe Mizono

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Salesforce(セールスフォース)は、インターネットを介してソフトウェアサービスを提供するSaaS(Software as a Service)型のビジネスモデルを確立し、CRMやSFAを中心とした業務アプリケーション領域に留まらず、エンタープライズソフトウェア市場全体の裾野を大きく広げることに貢献したテクノロジー企業です。「クラウド」という言葉が存在しない時代に創業し、現在では15万社を超える顧客を抱えており、その急成長の背景として独自のマーケティング戦略が重要な役割を果たしてきました。本記事では、Salesforce創業当時の1990年代のソフトウェア業界の歴史を振り返りながら、業界の常識を覆してSalesforceが世界的企業に成長するまでにどのようなマーケティングを行ってきたのかについてご紹介します。 ※本記事では現行の社名:Salesforceに統一して表記します。

SalesforceがリードしたグローバルSaaS市場

Fortune Business Insightsのレポート1によると、近年急成長しているSaaSのグローバル市場は2020年に1,140億ドルに達し、2028年までに7,160億ドルまで拡大することが予測されています。Salesforceの2020年1月期における売上高は約170億ドルであり、本レポートの数値を基準にするとSaaS市場において当社は約14%のシェアを占める計算になります。

The software as a service market

1990年代に提供されていた業務向けのソフトウェアは、CD-ROMによるインストール型(パッケージ型)が主流でした。その頃、史上最年少VPとしてオラクルに在籍していたマーク・ベニオフ(当時35歳)は、業務用ソフトウェアをインストール型ではなく、SaaSとして提供することに事業機会を見出していました。創業の背景についてマーク・ベニオフは自身の著書2で以下のように記しています。

「ソフトウェアの購入方法と利用方法をもっと簡単にし、複雑なインストールやメンテナンス、定期的アップグレードのない、より民主的なものにするというのが夢だった。当時の企業用ソフトウェアといえば、インストールに半年から一年半もかかり、ハードウェアやネットワークにも多大な投資が必要だったし、CD-ROMで提供されるソフトウェアパッケージは数百万ドルもした。…(中略)…1990年代に低価格帯のCRM製品を社員200人が利用しようとすれば、1年目の費用だけで合計180万ドルにもなったのである。さらに言語道断とでもいうべきことは、これだけの費用を払って導入し、管理にもそれ以上の費用がかかるというのに、そのソフトウェアの大部分が『シェルフウェア(編集注:持っているけどほとんど使っていない資産のこと)』になってしまうことだ。リサーチ会社ガードナーによると、シーベルのライセンスの実に65%も使われていないのである。」

1999年、マーク・ベニオフはインターネット経由でCRMを提供するSalesforceを創業。企業向けソフトウェアの新時代が幕を開けました。

尚、インターネットを介したブラウザベースでのアプリケーション提供という観点でSaaSと類似形態であるASP(Application Service Provider)も1990年代から普及しはじめており、ASPが「シングルテナント」(個々のユーザーに専用の環境を提供)であるのに対して、SaaSは「マルチテナント」(複数のユーザーで共通のソフトウェア環境を共有)という違いがあります。

マーク・ベニオフが主導したマーケティング戦略「NO SOFTWARE」

創業後まもなく、Salesforceは自社の新たなサービスモデルに注目を集めるため独自のマーケティング戦略に着手します。

明確なポジショニングとブランド定義

Salesforceは自社を業界のリーダーに戦いを挑む挑戦者として位置付け、従来の効率の悪いソフトウェア提供のあり方に戦いを挑むというストーリーを作り出し、自分たちの使命を「顧客のために新しくよりよいソフトウェアを提供すること」だと定義しました。 2000年、Salesforceのサービス発表イベントでは、そのストーリーを体現する仕掛けがなされました。会場の最下層フロアを「地獄」に見立て、従来型のインストール型ソフトウェアをそこに描写し檻の中に閉じ込められたセールスマンを演ずる役者が「助けてくれ!」と叫ぶ演出に加えて、ソフトウェアのCD-ROMをトイレに投げ込むゲームや、もぐらに他のソフトウェア企業のロゴを入れたモグラ叩きゲームまで用意されていました。招待客は地獄を通り抜けた後、ハープの演奏の中にSalesforceの製品が並ぶ最上階のフロア「天国」にたどり着く仕掛けでした。創業者であるマーク・ベニオフは戦闘服を着込んで革命家を演じ、既存のソフトウェア業界との戦いを体現しました。

「ソフトウェアの終焉」キャンペーンによる差別化

ブランド戦略を考えるにあたり、マーク・ベニオフはレーガン大統領のテレビキャンペーンにも関わっていた業界トップクラスの広告マン・ブルースキャンベルに相談を持ちかけ、「ソフトウェアの終焉」という広告キャンペーンが実施されることになります。これは、「NO SOFTWARE」と大きく書かれたロゴをすべての販促物に貼り付け、これまでのソフトウェア製品と自社の違いを強く訴えるものでした。他社との徹底した差別化により、このキャンペーンはウォール・ストリートジャーナルでも取り上げられるなど大きな反響を巻き起こしました。

過激にも思えるこれらのキャンペーンですが、マーク・ベニオフはブランディングの考え方について、以下のように記しています2

「会社のブランドは一貫性がなければ効果がない。対外的に会社のよい部分を一貫性を持って伝えるには、社員、製品、メッセージを総動員する必要がある。…(中略)…『私たちは顧客を大切にします』と宣伝している銀行であれば、2台のATMに20人もの顧客が列を作っているようではダメだ。ブランドはその約束を破ることはできない。約束を破れば、顧客は信用してくれなくなる。そうなればおしまいである。…(中略)…会社が所有できるのは会社としての個性である。当社はNO SOFTWAREを掲げているが、それは他社がそれを真似しないからではない。私たちが、それが顧客にとって重要だと考えた、はじめての会社だからだ。」

「NO SOFTWARE」を掲げたキャンペーンはその後も続き、ライバル企業のイベントを直接利用したゲリラ戦術を複数回行いました。当時CRMのマーケットリーダーだったSiebel Systemsのイベント会場であるサンディエゴ・コンベンションセンター前に大量の自転車タクシーを雇い、来場者にコーヒーと自社のマーケティング資料を手渡したり、欧州ユーザーウィークではニース空港からカンヌまでのタクシーをすべて借り切り、NO SOFTWAREのロゴを飾った社内でSalesforceの宣伝を行ったりしました。この徹底したライバル企業への不意をつくアプローチによって、Siebel Systemsは当時小さなベンチャー企業に過ぎなかったSalesforceに対してコメントをせざるを得なくなり、マスコミも2社の対立に興味を持つようになっていきました。業界のチャレンジャーとしてメディアからの支持を取り付けたSalesforceは、徐々にソフトウェア業界での存在感を高めていったのです。現在ではSaaSは当たり前のように普及してますが、当時はこれほどのキャンペーンを実施しなければ顧客に違いを認識してもらえないほど、SaaSという考え方が珍しく理解を得るのも難しかったのかもしれません。

2003年、CRMのマーケットリーダーだったSiebel Systemsは実質的なSaaSであるオンデマンド型サービスに乗り出すと発表した後、2005年にオラクルに買収されました。CRM市場の主役が、インストール型ソフトウェア企業からSaaS型ソフトウェア企業に切り替わった瞬間でした。尚、これらのライバル企業への戦術について、マーク・ベニオフはマーケティングの古典「ポジショニング戦略」を参考にしたと語っています。

NO SOFTWARE

ユーザーを巻き込んだコミュニティ施策

Salesforceは、成長していくにつれてライバル企業への攻撃を中心としたマーケティングからサービスの価値を訴えるマーケティングにシフトしていきました。

ファンがファンを呼ぶイベントの開催

他社ソフトウェア企業が予算を握る役員クラスをターゲットとする中、Salesforceはエンドユーザーを重視したイベントを実施します。当時、従来のインストール型ではないサービスを導入することは勇気のいる決断であり、Salesforceの顧客がさながら所属企業内での反乱軍のような存在となっていたことに着目したのです。Salesforceは自身の顧客を「Trailblazer」と名付け、イベント会場のチラシや広告に掲載し積極的に支援しました。

SaaSモデルは買い切りのソフトウェアと違い、顧客に使い続けてもらうこと、すなわちサービスを利用することによって顧客のビジネスの成功に貢献することがその本質です。創業当初から「顧客の成功」を強く意識していたSalesforceは、自社のビジネスを成功に導いた体験談をシェアすることを推奨し、実際にイベントに参加したTrailblazerのクチコミが、見込顧客への重要なアプローチとなっていきました。Trailblazerもまた、自分の取り組みをシェアしたり、ユーザー同士で交流したりするイベントへの参加を経て、Salesforceの強いフォロワーになっていったのです。

15名の参加者からはじまったSalesforceのユーザーイベントは毎年開催されている「Dreamforce」につながり、今では世界中から17万人が参加するイベントとなっています。マーク・ベニオフはこの巨大イベントのキーノートの冒頭で必ずTrailblazerの存在に触れており、SalesforceがいかにTrailblazerを大切に考えているかが伺えます。

Creative Marketing Strategies

AppExchangeによるSaaSのプラットフォーム化

2004年6月23日、SalesforceはIPOを実施したその日に54.6%の株価上昇を記録しました。このIPOは当時のCNET Japanで以下のように紹介されており3、Salesforce及びSaaSがソフトウェア業界にもたらす変化への期待が伺えます。

「このIPOは、ソフトウェア業界の再編をもたらす新しいビジネスモデルの試みとして注目されている。Salesforceは、企業向けCRMソフトウェアをサブスクリプション形式で販売する手法をとっており、この手法は企業の購買担当者間で人気が高まっている。アナリストらは、Salesforceの契約ベースモデルや類似の手法が成功すれば、SAPやSiebel Systems、PeopleSoft、Oracleなどの従来型の販売を行うソフトウェア企業に課題を突きつける可能性がある。」

創業からの数年間、SaaSモデルの価値定義に尽力したSalesforceは、次のステップとしてアプリケーションエコノミーの構築に着手します。このアプリケーションエコノミーのアイディアは、マーク・ベニオフのメンターだったスティーブ・ジョブズが発案したものでした4

これを形にしたAppExchangeが2006年にリリースされ、他社デベロッパーが開発したソフトウェアサービスをSalesforceを通じてダウンロードできるようになりました。AppExchangeによって、Salesforceを通じて他のアプリケーションにアクセスするエコシステムが構築され、Salesforceはオンデマンド型のCRMを提供する企業からSaaSのプラットフォーマーへと進化したのです。また、SalesforceはAppExchangeを通じてどの領域のアプリケーションが顧客に必要とされているのかタイムリーに知ることができ、投資判断や機能開発においてもアドバンテージを持つことができるようになりました。

今では世界で5,000以上のアプリ及びSaaSがAppExchange上に流通しています。このエコシステムによって、社内のワークフロー構築としてSalesforceを導入する事例も生まれており、CRM以外の入り口があることが今日のSalesforceの強みとなっています。さらにAppExchangeを利用して新たに起業するスタートアップにはCVC「セールスフォースベンチャーズ」が投資する体制になっており、これらの動きを統合したSalesforceエコノミーの売り上げ規模は2026年までに全世界で1兆6000億ドルに達し、933万人の雇用が新たに生み出されると予想されています5

すべては「顧客の成功」のため

創業からわずか20年たらずで世界を代表するソフトウェア企業となったSalesforce。Salesforceが開拓したSaaSモデルは今やソフトウェア業界では当たり前のものとなり、前述のコミュニティ施策やAppExchangeのようなプラットフォーム構築などはあらゆるSaaS企業のお手本になっています。 2020年、Salesforceの時価総額がオラクルを追い抜いた際のインタビューにおいて、「この20年間の最大のライバル企業はどこか」という質問に対して、マーク・ベニオフは「顧客の成功以上に重要なものはない」と答えています6。少数企業しか利用できなかった不便で高価なエンタープライズソフトウェアを開放すること、顧客を成功に導くこと、この執念がSalesforceの強さを支えてきたと言えるでしょう。

1:Fortune Business Insights「The software as a service market」
2:マーク・ベニオフ「クラウド誕生」 (ダイヤモンド社)
3:CNET Japan「セールスフォース、IPO初日は公募価格比56.4%超の17ドル20セントを記録」
4:Salesforce blog「How Advice from Steve Jobs Inspired the AppExchange」
5:ASCII.jp「セールスフォースが作る市場と雇用が急拡大 エコシステムの強みはどこにあるか」
6:The Market Is Opan「The Rise of Salesforce (Behind the Cloud Giant)」
マーケティングB2BSaaSクラウドコンピューティングビジネスエコシステムマーケティングオートメーションCRMスケールアップサブスクリプションモデルプラットフォームSalesforce

著者について

溝野 萌(みぞの もえ)。大学卒業後、Sansan株式会社で法人向けソフトウェアサービスの広報を担当。2021年、株式会社ROUTE06に入社。マーケティングチームにて広報業務やオウンドメディアの企画編集に従事。


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